Nishida Koji ブログアーカイブ

No.30 「習う」

hitorigoto

入試の季節。今年も苦痛な試験監督の時期となった。
何が苦痛と言えば、大好きな若者たちを前に、無言の状態でいなくてはならないことである。声をかけたい衝動、励ましたい衝動をぐっとこらえて、淡々と行わなくてはならない。これは かなりのストレスだ。

また、受験生が最良の状態で試験を受けられるようにすること、そしてカンニングをしたい衝動を未然に防ぐこと、という試験監督の職務は、結構気を遣うものである。
たまに、本を読んだり、書類に目を通したり、最悪の場合はウトウトとしてしまっている監督者も正直見かけたりするが、そんな片手間にやれるようなものではない。

さてさて今回は試験監督そのものに薀蓄を述べるつもりはない。

次に紹介する文章は、今年度の千葉大前期試験の国語の問題に引用されたものである。通常試験問題はさっと目を通す程度なのだが、この文章には惹きこまれた。少々長くなりますが、ご一読あれ。

「習う」は「倣(なら)う」であって、その根本は「真似(まね)る」である。「学ぶ」も、その元は「まねぶ」で、「真似る」である。
学習の根本にあるものは、「教師となる人のあり方を真似すること」なのである。今では、手っ取り早く「ノウハウだけを学ぶ」ですまそうとするが、そういうことは、その昔にありえなかった。「学ぶ」とはすなわち、 「先生に従う」で、それはモラルではなく、一つの実際的な学習法だったのである。

教える側の教師には、その教師個人のクセがある。その人にはその人なりのやり方があって、それがつまりは、個性でありクセである。「特性」を抜きにした「一般」は、人の場合ありえない。だから昔の生徒達は、教師なる人のクセぐるみ、教師のやり方を学んだ-真似たのである。

教師の体質が、教えられる生徒の性質と合致するかどうかはわからない。
教える側の教師が、教えるに際して、自分のクセやら体質やらをあらかじめ排除しておいてくれればいいが、すべての人にその人なりの体質や特性がある以上、「個性を離れたノウハウ」というものはない。だから、学ぶ側の生徒は、その初めにおいて、自分とは関係ない「教師のクセ」を、なんらかの形で共有しなければならなくなる。つまり、物事を「マスターする」ということは、一旦「自分のあり方」をどっかに置いておいて、先生となった人のあり方をそのまま自分の上に宿らせることなのである。それが「真似る=学ぶ」である。

初めにマスターするのは、「自分のやり方」ではなく、教師という「他人のやり方」なのである。それが「基本のマスター」であって、学ぶ側の人間は、その後で、自分の身に備わった「他人のやり方」を、自分の特性に見合ったものとして変えて行かなければならない。このプロセスを、「一般的なものから、自分オリジナルの個性的なものへの変化」と思っている人も多いが、しかし本当は、「自分とは違う他人のやり方から、自分に見合った個性的なものへの転換」なのである。

いかにその教師がすぐれていても、教師なる人と生徒なる自分とは、「人としてのあり方」が違う。違う以上、変更は必須になって、それをしない限り、本当の「マスターした」は起こらない。いずれは、それをするべきなのだが、学習のその初めは、しかたがない、「教師のやり方をそのまま真似る」にしかならない。「教師のやり方」とは、すなわち「教師のあり方」で、それはそのまま「教師となった人の生き方をなぞる」になるのである。

「学ぶ」とは、「師」となった他人の人生と、自分の生き方とを一致させることであり、「わかる」とは、その一致からはずれるような形で存在している「自分自身のあり方」を理解することなのである。自分と他人の違いは、そのようにある。それは「ある」のが当たり前だから、「学ぶことのうっとうしさ」も、そこから生まれる。

「私が学びたいのはあなたの持つノウハウだけです」と言っても、先生となる人は、そんな手前勝手なことを許してくれないからだ。「学ぶ」ということは「生き方を学ぶ」であって、だからこそ、「お行儀」は学習の第一になる。
それは、「学ぶ」ということが、「師となった人の生き方を学ぶ」とイコールになっているからである。   
橋本治『「わからない」という方法』

この文章を読んでいる瞬間、「試験監督」を全うしていませんでした。
ごめんなさい。

2002年2月
#030 習う