Nishida Koji ブログアーカイブ

No.26 「集中=無?」

hitorigoto

今年も9月27日から29日迄の間、金沢大乗寺にいた。ゼミ恒例の「座禅合宿」である。
私が大学を卒業して就職をしたのが25歳。その年、始めて座禅を体験した。以来、毎年一度は、「座る」ことをかかさない。

座禅は「無」になること、とよく言われるが、未熟な私には、到底その境地に達することはできない。単に、御仏の御前で自分自身と静かに対話することを求めて座ることを続けてきた。

今年、金沢大乗寺での修行中、これまでとは違った感覚に襲われた。これが「無」なのか?と思える瞬間があった。
また、修行の一つひとつの行いは、座禅の「無」に繋がるのだ、とも思えた。
もちろん私の感覚から来るものであるので、まったく勘違い、かつ的を外れているのかもしれないが、この場は私の独断と偏見の場であることに甘えて、感じたことを素直に記してみたい。

合宿初日に、一ゼミ生がこんな質問を修行僧の方にぶつけた。
「私は、食事をもっとゆっくり楽しみながら食べたいのですが、だめでしょうか?」
それに対し、次のような回答が返ってきた。
「修行で、最も大切なことは、一つひとつの行為に対する「集中」です。
食事中は、食事に集中することです。とにかく「集中」することに心がけてください。」
私は、なるほどと思い、一つひとつの行為に「集中」することを心掛けた。

床掃除の時、目の前の床を磨くことだけに専念した。庭を掃いている時、目の前にある落ち葉を集めることだけに専念した。窓拭きの時、目の前にあるガラスをきれいにすることだけに専念した。食事中も食べることだけに専念した。
もちろん、すべての時間に集中できたわけではない。しかし、これらの行為から実感したことがある。
それは、「集中」できたとき、時間(とき)はすっと流れていた。ある心地よさを感じていた。

座禅にも「集中」を試みた。とにかく座ることだけに専念しようと心掛けた。
しかし、こちらは掃除や食事の時のようにはうまくいかない。周りにいる人、音、頭をよぎる雑念、なかなか「集中」できない。それでも、座って姿勢を整え、息を整えることだけにひたすら専念した。とにかく諦めずに続けた。
一瞬すーと、時(とき)が流れた感覚を感じた。同時に、ある心地よさを確かに感じた。これだ!と思った。

単純で思い込みの激しい性格なので、大きな勘違いであるかもしれない。しかし、これまでの座禅からは感じ得なかったものを確かに感じた 。
ちょっとだけ、「無」の世界に近づけたかも、と一人でニヤニヤしてしまった。(笑)

何事も「集中」。よく耳にする。
「集中」=「無」かも?

次に座る機会を楽しみにしている。

2001年10月
#026 「集中」=「無」?